1923年 |
5月24日東京市生まれ。日本橋呉服商の長男。本名、清太郎。元NHKアナウンサー鈴木健二は6歳下の弟。 |
1943年 |
旧制弘前高校文科乙類入学。柔道部に所属。寮の同室の学生に北一輝「支那革命外史」を読むように勧められる。まもなく学徒出陣。 |
1944年 |
下関より輸送船団で南方に向かう途中、潜水艦の襲撃を受け船団は壊滅。同期生29人が戦死。清太郎は半月以上かけてフィリピンに到着。翌月マニラから輸送船で脱出中、またもや敵の襲撃受け、海に放り出される。8時間程漂流の後、味方の船に救出される。 |
1946年 |
紀州の田辺港に復員。弘前高校に復学。 |
1948年 |
旧制弘前高校を卒業。東大の経済を受験するも失敗。同じ東大を落ちた仲間に誘われ「鎌倉アカデミア」の映画科へ入学。 |
その秋、映画科の科長をしていた重宗和伸の紹介で松竹大船撮影所の戦後第一回助監督試験を受けて合格。合格者は1600人中8名(他に松山善三、井上和男、斎藤武市、中平康、有本正、生駒千里、今井雄五郎)清太郎の成績は23番だったという。 |
松竹では助監督として渋谷実、岩間鶴夫、中村登、大庭秀雄ら、いわゆる松竹人情路線につく。 |
1954年 |
日活の制作再開に伴うヘッドハンティングで日活撮影所に移籍。給料は2.5倍に。他に移籍した助監督は斎藤武市、中平康、松竹京都より関喜誉仁ら。 |
初めてチーフ助監督となった山村聡監督・主演『黒い潮』で予告編を任されるが(当時予告編は助監督が作っていた)、本編にないシーンを撮り予告編だけがお蔵入りになったという。この当時から無茶してたらしい。なお、この映画のセカンド助監督は今村昌平、サードは浦山桐郎。清順美学の“共犯者”(誰が考えたか上手い言い回しだ)美術の木村威夫との出会いもここ。記録によれば、他に野口博志監督の助監督2本がある。 |
1956年 |
『港の乾杯 勝利をわが手に』本名鈴木清太郎の名で監督デビュー。チーフ助監督蔵原惟繕、サード助監督藤田敏八。 |
1958年 |
『暗黒街の美女』で鈴木清順と改名。 |
1963年 |
『探偵事務所23 くたばれ悪党ども』を発表。それまでの日本映画には珍しい、ハードボイルド&ミュージカル&コメディーの秀作(本当か?)との評価を受ける。 |
同年 |
『悪太郎』で木村威夫と初めて組む。ここから清順美学が確固たるものとなっていく。 |
1966年 |
伝説の脚本創作グループ「具流八郎」結成。メンバーは清順の他、大和屋竺、曾根中生、田中陽造、岡田裕、山口清一郎、木村威夫、榛谷泰明とされているが、実際は流動的だったらしい。 |
1967年 |
伝説的傑作(か?)具流八郎脚本『殺しの烙印』公開。 |
1968年 |
日活より専属料の打ち切りを電話で通告される。その通告を不当として清順側は日活を告訴。鈴木清順共闘会議が結成され抗議デモに発展。その中心となった創造社の大島渚が「鈴木清順は2年以内に映画を作れ。作らなければ清順も敵だ」と声明を発表したとか。かの川喜多和子もデモに参加していたという。当の本人はそんな周囲はおかまいなしで具流八郎名義での脚本を数々執筆。 |
1969年 |
「レナウンピッコロ」のテレビCFを監督。ACC銀賞を受賞。 |
1971年 |
日活裁判和解成立。 |
1977年 |
『悲愁物語』で十年ぶりに映画界に復活。原作・プロデュースは梶原一騎。 |
1980年 |
『ツィゴイネルワイゼン』公開。移動式映画館シネマプ・ラセットで上映。プロデュースは荒戸源次郎。ベルリン映画祭審査員特別賞をはじめ各映画賞受賞。黒澤明『影武者』を押さえキネマ旬報堂々第一位。 |
1981年 |
『陽炎座』公開。後に、『ツィゴイネルワイゼン』『夢二』と合わせ大正三部作と呼ばれる。 |
(私個人に関していえば、この頃(当時高校生)『ツィゴイネルワイゼン』をテレビ(だったと思う)で初めて観て衝撃を受ける) |
1985年 |
宮崎駿に続いて押井守が作るはずだった劇場版ルパン三世第3作を請け負い、『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』を吉田しげつぐと共同で監督する。 |
(私個人に関していえばたしかこの頃(当時大学生)、池袋の旧文芸座地下で行われた鈴木清順特集に足繁く通う。その時清順&田中陽造の対談があったような気がする) |
1991年 |
『夢二』公開。 |
1993年 |
具流八郎の中心人物、大和屋竺死去。 |
(そういやこの頃、曾根中生が失踪していたってニュースがあったような気がする) |
1997年 |
デビュー作助監督であり『ツィゴイネルワイゼン』にも主演した藤田敏八死去。 |
2001年 |
七年ぶり単独監督作品『ピストルオペラ』公開。
第58回ベネチア国際映画祭においてエジプトの巨匠ヨセフ・シャヒーン監督、ジャンヌ・モローとともに“偉大な巨匠へささげるオマージュ”として記念の盾が贈られる。 |
2003年 |
ミラネジアーナ・文学音楽映画(ミラノ文化祭)において「巨匠にささげるオマージュ」の盾を受ける。 |