今見れば仕方のないことだが、「当時」という言葉を接頭語に付けて語らざるを得ない作品である。
映画(これはテレビドキュメンタリーだが)は基本的に“時間”を超えられない。
放映当時8歳だった私でさえ(残念ながらリアルタイムで本作を観た記憶はないが)、三億円事件が時効を迎えることを知っていたほど、国民的関心事だったのだ。だが、その関心は「当時」だったからである。未だ捕まらない犯人の謎を解こうとした本作は、時効を一ヶ月後に控え、相当リアルでホットな関心事として受け入れられたに違いなく、それが視聴率にも現れている。だが、残念ながらこの事件は、今日となっては映像化に向かない。なぜなら、過去の事件を掘り下げて面白いのは、「何故犯行に至ったか?」という犯人の心理描写なのである。そういった意味で「面白がって見られない」のは非常に残念ではあるが、この作品が目指したものの性質上いたしかたないことである。
しかしその一方で、本作は、本来超えられないはずの“空間”を超えようとしている。
岡本喜八自身がインタビューし推理する旨を前述しているが、正確に言うと少し違う。岡本喜八は、元刑事と一緒に“犯行現場に立ち”、犯人の通った(と思われる)足どりを歩きながらインタビューしているのである。つまり、犯行現場と茶の間の“空間”を見事に埋めるのだ。前半の黒子の再現ドラマと合わせ、当時としては相当斬新な作りだったのではなかろうか。
今となってはリポーターなんてものが現地を訪れ、再現ドラマも当たり前となっているが、それでもなお、古びた感じはせず、むしろ今見ても新鮮に思える。その理由の一つとして、今のリポーターや再現ドラマは、視聴者に説明するために存在する場合がほとんどだが、本作は“推理し”“立証する”ために行っている点だ。また、現在のテレビは、多くの場合、キャスターがいてリポーターがいる。視聴者は“キャスター視点”で、つまり“第三者”視点で、リポーターの現地報告や再現ドラマやインタビューを見せられる。だが本作には“キャスター視点”が存在しない。観客は、リアルに“喜八視点”で現地を見て、推理の声を聞き、再現ドラマを見る。それが“空間”が埋まっていると言う所以である。 |