頼まれもしないのに勝手に作った
映画はビートだ=岡本喜八Profile


岡本喜八が急逝したので、急遽作ったものです。
まだまだ不足してます。今後、徐々に追加していく予定です。たぶん。

Profile
Filmography
 
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1924年
(T13)
0歳 2月17日、鳥取県米子で生まれる。本名・岡本喜八郎。
祖父、祖母、父・敞一、母・松枝、4歳年上の姉・文子の6人家族。
祖父の代まで戦国時代から続いた大工。父は折箱製造業、母は洋品雑貨商を営む。
1931年
(S6)
7歳 《9月18日 満州事変始まる》
1932年
(S7)
8歳 秋、母・松枝が結核で死去。
1936年
(S11)
12歳 《2月26日 二・二六事件》
4月、姉・文子が結核で死去。
1941年
(S16)
17歳 3月、鳥取県立米子商蚕学校商業科(現・南商高)卒業。
明治大学専門部商科へ入学の為、上京。
《12月8日 真珠湾攻撃》
1943年
(S18)
19歳 9月、大学を2年半で卒業後、演出助手として東宝に入社。
アメリカ活劇とフランス喜劇に憧れていたという。
『芝居道』(監督:成瀬巳喜男)の第四助監督が初仕事。
完成前に徴兵される。
1944年
(S19)
20歳 1月、中島飛行機武蔵野製作所に徴用される。
6月8日、徴兵検査を受け、第一種乙合格。
8月31日、陸軍特別甲種幹部候補生を受け採用される。
1945年
(S20)
21歳 1月10日、松戸の陸軍工兵学校入学。
4月29日、豊橋陸軍予備士官学校へ。
《8月15日 終戦》
空襲で戦友を、南方で旧制中学校の同級生の大半を失う。
復員時40kgの体重を53kgまで回復させて東宝復帰。
1946年
(S21)
22歳 《3月 東宝争議始まる》
1947年
(S22)
23歳 《3月 新東宝発足》
1948年
(S23)
24歳 《4月 東宝、千二百人の人員整理》
    この頃、助監督として成瀬巳喜男やマキノ雅弘、谷口千吉、本多猪四郎らに付く。
助監督時代の作品
“きはっちゃん”の愛称で役者やスタッフから人気があったという。
また、この時代、三船敏郎と暮らしていた時期もあるとか。
1956年
(S31)
32歳 助監督として参加した『裸足の青春』(監督:谷口千吉)で仲代達矢と出会う。
1957年
(S32)
33歳 東宝が作家・石原慎太郎に自作「若い獣」を監督させると発表。
これに助監督47名が反対。
交換条件で助監督からも1名シナリオ選考で監督を昇進させることになる(それが岡本喜八)。
1958年
(S33)
34歳 『独立愚連隊』『ああ爆弾』のシナリオが認められ、『結婚のすべて』で監督デビュー。
監督昇進まで15年かかった。

結婚のすべて
『若い娘たち』

1959年
(S34)
35歳 正式に監督契約。
初のオリジナル作にして出世作『独立愚連隊』発表。
『暗黒街の顔役』
『ある日私は』
『独立愚連隊』
1960年
(S35)
36歳 13歳年下のみね子夫人と結婚。
みね子夫人(旧姓・中)は、東京生まれ、早稲田大学心理学科卒業。
シナリオ・ライター志望だったが、岡本喜八と出会い卒業と同時に結婚。
『大学の山賊たち』
『独立愚連隊西へ』
1961年
(S36)
37歳 長女・浩実誕生。  『暗黒街の弾痕』
『顔役暁に死す』
『地獄の饗宴』
1962年
(S37)
38歳 次女・真美誕生。 『どぶ鼠作戦』
月給泥棒
1963年
(S38)
39歳 本人が最も気に入っているという『江分利満氏の優雅な生活』発表。
ところが、
「サラリーマン喜劇を撮らせようとしたのに、なんで戦中派の心情なんか入れるんだ」
「変化球ばかり投げるな」と干される。
『戦国野郎』
『江分利満氏の優雅な生活』
1964年
(S39)
40歳 干されて併映作品作りに回され『ああ爆弾 』を作る。
結果、好き勝手に作り後に傑作の呼び声が高くなる。
ちなみに併映のメイン映画は『砂の女』。
『ああ爆弾』
1965年
(S40)
41歳    『侍』
『血と砂』
1966年
(S41)
42歳    『大菩薩峠』
1967年
(S42)
43歳 『殺人狂時代』完成もお蔵入り同然に。
ATGに『肉弾』の企画を持ち込む。
『殺人狂時代』
『日本の一番長い日』
1968年
(S43)
44歳 独立後初作品『肉弾』を制作費僅か一千万円でATGにて制作。 『斬る』
『肉弾』
    この頃、父親が死亡。
宮大工だった父親は40代半ばで勝手にリタイアし趣味の骨董品屋を始めたという。
「貧乏なくせに家の生活を無視してね」「親父を軽蔑していた」と語っている。
理解しあえたのは父親が病気になってからとか。
1969年
(S44)
45歳 後に自身がリメイクする『助太刀屋助六』を正味46分のテレビドラマとして制作。
翌年には漫画化もしている唯一自身の原作。
『赤毛』
1970年
(S45)
46歳    『座頭市と用心棒』
1971年
(S46)
47歳   『激動の昭和史 沖縄決戦』
1972年
(S47)
48歳   『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』
1973年
(S48)
49歳   『にっぽん三銃士 博多帯しめ一本どっこの巻』
1974年
(S49)
50歳 喜八プロダクション設立
以後、みね子夫人をプロデューサーに据え、夫婦二人三脚の映画制作が始まる。
資金面では苦労の連続。川崎市の自宅は長らく抵当に入っていたという。
『青葉繁れる』
1975年
(S50)
51歳     『吶喊』
1976年
(S51)
52歳 東宝を辞し独立。
(監督デビュー後初めて制作作品の無い年)
 
1977年
(S52)
53歳   『姿三四郎』
1978年
(S53)
54歳   『ダイナマイトどんどん』
ブルークリスマス
1979年
(S54)
55歳   『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』
1981年
(S56)
57歳   『近頃なぜかチャールストン』
1986年
(S61)
62歳   『ジャズ大名』

1989年
(H1)

65歳 春の紫綬褒章受賞。  
1991年
(H3)
67歳 みね子夫人が相続したアパートも抵当に入れ、構想12年『大誘拐』完成。 大誘拐
1995年
(H7)
71歳 初の米国ロケもあった長年温めた企画『EAST MEETS WEST』完成 『EAST MEETS WEST』
    その米国ロケ中、言語障害となり、硬膜下血腫の診断。
摘出手術を受けるも、その後も軽い脳こうそく、肺気腫、気管支拡張症などに見舞われる。
2001年
(H13)
77歳 病気をおして『助太刀屋助六』完成。
かつて父親が亡くなったことにヒントを得た作品のリメイクが自身の遺作となる。
『助太刀屋助六』
2005年
(H17)
81歳 2月19日午後零時半、食道がんのため川崎市多摩区の自宅でみね子夫人に看とられて逝去。享年81歳。
病床で脚本を書き上げた40作目『幻燈辻馬車(げんとうつじばしゃ)』(山田風太郎原作)は幻に。

(参考・引用) kihachi フォービートのアルチザン(東宝出版事業室・刊)
日本映画データベース
どこでどう入手したか分からない資料等