詩のしの詩 (宇宙堂第2回公演 作・演出:渡辺えり子)

主要キャスト:片桐はいり/篠井英介/寺島しのぶ/深沢敦/渡辺えり子

都市のビルのはざま。中空に浮かぶ月のようにあらゆる生命を育む小さな小さな大地がある。


二宮(篠井英介)が営む週末菜園にやってきた風花徹子(片桐はいり)
と久保夫妻(深沢敦・渡辺えり子)。
腹違いの妹・清美(寺島しのぶ)に婚約者・石川(篠井英介2役)を挙式当日に
奪われたという過去を持つ徹子は、心の傷を抱えたまま生きていた。
農家の四女として生まれた徹子は、姉達(渡辺・深沢2役、篠井3役目)に
いじめられた継母(寺島しのぶ2役)が産んだ清美を宝物のようにかわいがって
いたにも関わらず・・・。
15年前に死んだ二宮の弟の亡霊(篠井4役目)や養老院にいるはずの二宮の
母の生霊(篠井5役目(^^))が時折現れるこの菜園にやはり訪れていた清美と
偶然再会する徹子。
「何故あの時婚約者を・・・」
そんな言葉を発する暇もなく、清美の婚約者だという二人の男がはちあわせして・・・。
徹子、清美、久保夫妻、そして二宮。各々の過去がしだいに掘り起こされていく。
まるで畑の土を耕すように。ゆっくりと肥沃な土壌に変わっていくように・・・

舞台があまり好きでない私(カット変わらないとダメなのよ)がひょんな事から見に行くことに。
特にこういった小劇場系のノリは好きでない(だけど劇団四季なんかはもっと嫌い)のだが、正直言って充分楽しんだ。

今更ながら初めて気付いたのだが、演劇(小劇場系)はジャズに似ている。
主旋律があって、時折そこから脱線して(時に今回のように主要キャストが5人もいるとソロパートもあったりする)また主旋律に戻る。
一見脱線したパートで張られた伏線が最後に一点に集約される・・・はずなんだがなぁ。
映画の場合、主旋律から脱線することはほとんどない。
音楽では説明しにくいので料理に例えると、映画の場合は、素材をいかに調理して客に出すかという点に主眼があるように思える。
あれもこれもあれもこれも詰め込んだ映画は往々にして「消化不良」という評価を受ける。
ところが舞台の場合は少し趣が異なる。
素材が多い。時には調理されない素のまま(あるいはサラダ程度の調理のまま)素材があちこちに散りばめられる。
そして観客は、「自分のアンテナ」に引っかかった素材だけを自分の中で調理することになる。
もちろん映画も「観客のアンテナ」に解釈が委ねられるし、中にはゴダールのようにそれが突出している場合もある。
だがその依存度は概ね舞台ほど高くない。
そして映画は、一見主旋律からはずれたように見える伏線が最後に点として収束する(そういった物が名作と呼ばれる)。
ところが舞台ではそういった伏線が投げ出されたようにしか見えない場合が多い。必ずしもそうではないのだが、
少なくともこの作品は私にはそう見えた(充分楽しんだ事にかわりは無いのだが)。
言い換えれば、「観客への依存」が「投げ出している」ように私には見えるのだ。

さらに言えば、「舞台」→「映画(単館系→ハリウッドメジャー大作)」→「テレビ」という観客数の多さと
「観客のアンテナへの依存度の高さ」が反比例しているという点も興味深い。
これはおそらく「作り手の自由度」と関わりがあるのだろう。


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