詩のしの詩 (宇宙堂第2回公演 作・演出:渡辺えり子)
主要キャスト:片桐はいり/篠井英介/寺島しのぶ/深沢敦/渡辺えり子
舞台があまり好きでない私(カット変わらないとダメなのよ)がひょんな事から見に行くことに。
特にこういった小劇場系のノリは好きでない(だけど劇団四季なんかはもっと嫌い)のだが、正直言って充分楽しんだ。
今更ながら初めて気付いたのだが、演劇(小劇場系)はジャズに似ている。
主旋律があって、時折そこから脱線して(時に今回のように主要キャストが5人もいるとソロパートもあったりする)また主旋律に戻る。
一見脱線したパートで張られた伏線が最後に一点に集約される・・・はずなんだがなぁ。
映画の場合、主旋律から脱線することはほとんどない。
音楽では説明しにくいので料理に例えると、映画の場合は、素材をいかに調理して客に出すかという点に主眼があるように思える。
あれもこれもあれもこれも詰め込んだ映画は往々にして「消化不良」という評価を受ける。
ところが舞台の場合は少し趣が異なる。
素材が多い。時には調理されない素のまま(あるいはサラダ程度の調理のまま)素材があちこちに散りばめられる。
そして観客は、「自分のアンテナ」に引っかかった素材だけを自分の中で調理することになる。
もちろん映画も「観客のアンテナ」に解釈が委ねられるし、中にはゴダールのようにそれが突出している場合もある。
だがその依存度は概ね舞台ほど高くない。
そして映画は、一見主旋律からはずれたように見える伏線が最後に点として収束する(そういった物が名作と呼ばれる)。
ところが舞台ではそういった伏線が投げ出されたようにしか見えない場合が多い。必ずしもそうではないのだが、
少なくともこの作品は私にはそう見えた(充分楽しんだ事にかわりは無いのだが)。
言い換えれば、「観客への依存」が「投げ出している」ように私には見えるのだ。
さらに言えば、「舞台」→「映画(単館系→ハリウッドメジャー大作)」→「テレビ」という観客数の多さと
「観客のアンテナへの依存度の高さ」が反比例しているという点も興味深い。
これはおそらく「作り手の自由度」と関わりがあるのだろう。