2003年2月26日(水)のひとりごと 「禁じられた言葉遊び」


先日「ホップがO157の毒素を消す」といった新聞の見出しを見つけた。
どうやらビールの原材料にも使われているホップにそのような効果があるという記事らしいが、電車の中で他人が読んでいる新聞を覗き見しただけなので正確なことは分からない。
記事の真偽はともかく、問題は私が覗き見した点にある。
パッと見「ボブ・サップがO157の毒素を消す」と読んでしまったのだ。
恐るべしボブ・サップ(そういうことじゃない)。恐るべしボブ・サップ効果(だからそういうことじゃないって)。
こういう「見間違い」は何と呼べばいいのだろう?「空耳」ならぬ「空目」とでも言うのだろうか?
何だよ「ソラメ」ってドラえもんの妹かっ!(それはドラミだっ!)←というわけで、いかに私がダジャレ下手かお分かりになろう。

日本には数々の言葉遊びがある。日本に限らず世界中にある。
bunqさんの名前を勝手に出すと彼女は怒るだろうが、このハンドルネームはとても優れた「言葉遊び」だと思う。
ブニュエル大好き=ブニュエルきゅ〜から来ていると推測されるが(ぴろちゃんきゅ〜さんが派生させた「大好き=きゅ〜」の公式を前提として踏まえねばならない)、bunqをくるんとひっくり返してもまたbunqになるのだ。
試しにやってみよう。元:bunq → 反転後:bunq ほーらね(<詐欺)
日本の単語でこういう遊びができるものはあまりない。とっさに思い付くには「山本山」くらいのもんだが、それだって若い人にはナンノコッチャか分からんネタだ。

逆さ言葉回文は、また文字遊びとは違った面白さがある。
回文を扱ったサイトや雑誌のコーナーなども多くあり一種のブームらしいが、知人の知人が作ったというこの2点を超える回文に私は未だお目にかかったことはない。

浦和で馬鹿な奴、通夜半ばで笑う

「浦和は埼玉」大佐は笑う

「馬鹿だなあ、浦和は埼玉に決まってるじゃないかハッハッハ!」と高笑いする大佐の姿が目に浮かぶようだ(<大佐って誰だ?)


しりとりもまた言葉遊びの一種だ。
しりとりにはいろいろ思い出がある(本家掲示板でのしりとりに難色を示したというのもその一つだが)
高校生時代、授業中に絵描きしりとりをやったことがあった。テーマは転がるもの。
つまり転がっている絵を描ければいいのだ。
初めは「玉」「毬」「リンゴ」などとやっていたのだが、
しだいにゾウ(パオーンとか言いながら象が転がっている)などとだんだん怪しくなり、
しまいには八百屋(店ごと回転して「ワー大根が!」などと悲鳴が書かれている)などという、かなりアナーキーな展開になったことを覚えている。

また、高校時代に何の拍子かしりとりをやっていた時のこと(高校の思い出はしりとりしかないのか)。
が回ってきた友人Aは「ウルトラマン」と言おうとして「ウルトラマ・・・」まで言って「ん」で終わることにハタと気づき、
「ウルトラマンタロウ」とでも言えばいいものを何を思ったかとっさに

「ウルトラマシーン」

と言ってしまい、「何だよウルトラ・マシーンって、どんな機械だよ!」「おまけに「ン」で終わってるじゃねーか!
と、無駄にあがいた割にさんざん罵倒されていたことを覚えている。


やたら長い前置き(思い出話か?)になってしまったが、本題はこれから書くダジャレである。
中でも特にオヤジのダジャレ。
本来、地口ともいい落語の下げ(オチ)にも使われる語呂合わせで、深い文化のあるもの・・・のはずなのだ。
少し趣は異にするが、詩における韻などもまた似たものがある(外国語に比べて日本語は語呂を合わせ易く芸術とは成り得ないという説もあるが)。

何故オヤジはダジャレを好んで口にするのか?

そして何故人はそれをオヤジギャグと忌み嫌うのか?



ちなみに井上陽水は変な韻を踏むのが好きである。アルバム『LION&PELICAN』中「ラブ・ショック・ナイト」という曲の一節

 アラビアの奥まで子供の為にとはばたいて歌うカナリア
 カメリアのダイヤで笑いかけていたスーザンはすでにマラリア

マラリアってあんた・・・(そんな所が好きなのだが)

職場に一人その手のオヤジがいる(幸い別の部署だが)。
残業で店屋物を取ろうという時、「俺はカツ丼の上お願い。カツドンのジョーと呼んでくれ」と言い放ったことがある。
私が先輩(男)からネクタイをいただき、その先輩の誕生日にネクタイをお返ししたことがあり「俺たち一体(男同士で)何なんでしょうね?」みたいな話をしている時に割って入り「二人にはネクタイ(肉体)関係があるんだよ」と言い放ったこともある。

えーっと、ちょっと面白かったです


というわけでオヤジギャグの謎を解明するにはまだまだ研究が必要そうだが、
そんなことに貴重な時間を費やすつもりはない。


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